読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

littlewing

人間とコンピューターとメディアの接点をデザインするために考えたこと

【読書メモ】個人化するリスクと社会 -ベック理論と現代日本

photo by Evil Erin

以前も書いたように、テクノロジー=メディア=メッセージが成立する中、 これから起こるイノベーションにおいてテクノロジーの位置付は重要になっています。

これは単に

  • ソーシャルメディアの次は何なのか?
  • AppleWatchは売れるのか?
  • 3Dプリンターは一家に一台になるのか?

などのガジェット・プロダクトの流行やビジネス的な次元ではありません。

テクノロジーに精通した個々のエンジニアが持つ社会に対するビジョンや、問題意識、関係をデザインする力が社会の成り立ちに直接または間接的に影響を与えていくことになります。

IoT/NUIの発展によって、インターネットテクノロジーは、大小様々なディスプレイサイズを超えて、世の中に浸透していきます。 ディスプレイサイズを超えることは、世代や国境も同時に越えることになり、この潮流はもう後戻りすることはありません。

だからこそ、考え、実践していかないとイカンのです!!


と、熱い書き出しになりましたが、今回は読書メモです。

  • 個人化するリスクと社会 -ベック理論と現代日本

という本を読みつつ、ビールを飲みつつ、、

ベック理論って何?

本のタイトルになっているベック理論ですが、ドイツを代表する社会学者「ウルリッヒ・ベック」の唱えた理論です。 そして今年、2015年1月1日に残念ながら70歳で亡くなりました。

現代社会が抱えるリスクを警告した著書「危険社会」(1986年)が特に有名で、日経新聞によると「東京電力福島第1原子力発電所事故を受け、脱原発を提言したドイツ政府の諮問機関「倫理委員会」のメンバーも務めた」とのこと。

本書によると、ベックが現代の社会学に果たした貢献は、3つの領域にわけて考えることができます。

  • 第一に大気・水・食品等に含まれる化学物質がもたらすリスクの問題
  • 第二に人生設計やアイデンティティーの構築における個人化をめぐる問題
  • 第三にグローバル化やコスモポリタン化をめぐる分析

この3つの領域は相互に関連し、

  • 「リスク社会」
  • 「再帰的近代化」
  • 「第二の近代」

といったテーゼに結実します。

「個人化するリスクと社会 -ベック理論と現代日本」は、法政大学の鈴木宗徳教授が編著者となり、ベックの提起する「個人化」という観念を用いて現代社会を読み解くという内容となっています。つまり「個人化」が焦点となっています。

個人化が抱えるリスク

「現代は個人化が進んでいる」という考え方は、多くの方が漠然と共有している考え方ではないでしょうか?

「核家族化」「終身雇用制度の崩壊」「東京への一極集中」「出生率の低下、未婚率の上昇」など、特に最近というわけでもなく、長い間ニュースなどでも取り上げられています。

個人化は、家族・階級・企業などの中間集団から解き放たれることにより、個人の自己選択の余地が拡大して非常にポジティブな印象を持っている方も多いかと思います。

ただ一方で、個人の人生が多様化した結果、失業や離婚など人生上のリスクを個人で処理することが余儀なくされるということでもあります。

ライフコースの多様化は、結婚・離婚、就職・離職・再就職、再教育・再訓練もすべて自己責任で選択することを強いられることになります。

そして、SNSの普及した今は、自由な人間関係を築ける「可能性」は増えた反面、どのような関係を結ぶのか(結ばないのか)も常に不安定な中で自己責任で選択を行う必要があります。

自分は何者であるかというアイデンティティーも常に不安定な状況の中で、頻繁に再定義し問い続ける必要があるのです。

また、「終身雇用制度の崩壊」は若者の価値観への影響や労働者サイドの視点で語られることが多いですが、既にバブルの崩壊から20年近く経とうとし、多くの企業の経営者や中間クラスの人たちもその前提に立っているといえます。

経営サイドから見た場合、「終身雇用制度の崩壊」は必ずしもマイナスではないはずです。

自由に見えるが、実は制約のある選択肢

ライフコースの多様化・個人の自由な選択肢は、多くの方が(ある意味、無邪気に)望んで推進・肯定しています。 それにより、家族・階級・企業などの中間集団が弱体化し、国家・行政も、多様化・自由・個人化を望む民意を反映した自由な(自己責任の)社会を推し進めています。

その結果、一見「自由な選択肢」は、表裏一体である「重い自己責任」によって、実際の選択肢は狭まっているとも言えるのでは無いでしょうか? ここに個人化のパラドックスがあるのですが、 さらに悪い事に、このパラドックスに気づかずに、

  • 自由であると思い込み、苦しい社会で生活している人

と、

  • 気づいた時には既に選択肢がなくなっている人(自己責任しか残っていない)

が大半を占める社会になっていないでしょうか?

過剰とも思える自己実現要求は、果たしてどこから来たのでしょうか? 多くの人は自ら思いついたのでしょうか?資本主義経済・ゲゼルシャフト社会の中で選択せざるを得なかったのでしょうか?

第一の近代と第二の近代

ベックの言葉に「第一の近代」と「第二の近代」があります。

「第一の近代」においては 主体は「境界づけられた主権」と「計算可能な主体性」を持つものと想定されています。

これは人間の本性・肌の色・男女の性など「本質的と考えられていた特質」と、国籍・階級・家族など「社会的構想物のフレーム」内でのライフコースの選択が中心となっていました。 あくまでもこの枠内(フレーム内)での「自由のための戦い」であったと言えます。

ところが「第二の近代」においては、この枠自体の安定性が相対的に失われ、流動的なネットワークの中でフレーム自体の境界を自分で定めないといけないのです。

この「第二の近代」(もしくは移行期)においては、新しい社会基盤を過去とは異なる視点で構築する必要があるかと思います。 (しかも、高齢者の多い日本で、、)

再帰的近代化

もうひとつのテーゼである「再帰的近代化」に関しては、他サイトの表現を引用すると

「再帰的近代化」ってなに

以前の近代化は自然と伝統という目的・対象(Objekt)を近代化していく「単純な近代化」であった。それは身分的な特権や宗教的な世界像を「脱魔術化」していく近代化である。しかし、現在、この近代化はその目的・対象を吸収し尽くして喪失し、自己を近代化していく段階に入った。これが「再帰的近代化」である。

ということになります。

社会保障と道徳性

自己責任とも関連して、本書では、社会保障と道徳性に関しても書かれています。 重複しますが、現在日本社会においては、自分の自己責任については気付かないフリをして、自由を要求し、他人に対しては自己責任を追求する傾向が強く、また、社会保障を受ける権利に関しても、過度に道徳性を重視した判断が行われている現状を冷静に見つめなおす必要があると本書を読んで思いました。

この辺りは、仏教の因果報応的な思想基盤のある日本文化と、キリスト文化の海外ではより良い社会を作るためのアプローチが異なるかもしれません。(キリスト文化も、カトリック/プロテスタント文化圏で異なるとも思いますが・・)

監視社会と「みまもりケータイ」(第5章より)

日本社会においては2000年初頭以降「犯罪の凶悪化」、「治安悪化」をめぐる報道が過熱し、社会的な大きな関心事項となりました。

本当に犯罪の凶悪化・治安悪化が進んでいるかはさておき、第二の近代の進行および個人化の流れと相まって監視社会の推進が進んでいます。

個人化と監視は近代社会のしくみを記述するための一対の観念なのである (P.166)

このひとつの事例として本書では「みまもりケータイ」に関する考察が展開されています。

テクノロジーの発展と(マスコミの報道~民意を基にした)政府による推進により「子供の安全」に監視技術の導入とその受容が進んでいきました。

第一の近代においては「地域の子供へのまなざし」などが期待できたのですが、家族・地域など中間集団の弱体化や、母親自体のライフコースの多様化など「個人化」の推進により 監視が受容される環境はそろっているといえます。。

また「みまもりケータイ」サービスの市場も開拓されていきます。

先にも書いたように個人化と監視社会は表裏一体であり、また監視社会は個人化をさらに推進していきます。「みまもりケータイ」は育児の個人化・自己責任化をさらに推進させるツールでもあるといえます。育児の個人化もさらに加速するでしょう。

「みまもりケータイ」は誰を守るのでしょうか?母親でしょうか?子供でしょうか?弱体化した中間集団でしょうか?

「みまもりケータイ」に子供は愛情を感じるのでしょうか?

このように書くと

ライフコースの多様化を前提に

今後も第二の近代化・個人化は進んでいくでしょう。その中で、私たちは何をしないといけないでしょうか? 社会としては個人化とそのリスクを認識し、サポートするための変化が必要であると思います。

現在、多くのインターネット技術はさらなる個人化の推進に利用されている側面が多いと感じています。 自分自身に関しては選択肢の多様化を謳歌し、他者に対しては自己責任を糾弾する。そのような使われ方になっていませんか?

ただ、もっと他の使い方があるのではないでしょうか?

本書の中でも、ライフコースの多様化とそのリスクに対応するために社会として

  • 労働
  • 家事/育児/介護
  • 教育、職業訓練

3つの領域を自由に移動できるような枠組みの必要性に関して記述されています。

これらのことは切実に必要となって来るでしょう。

その中でテクノロジーに何が出来るのか、考えて見たいと思います。 みなさんはどう思いますか?

個人化するリスクと社会: ベック理論と現代日本

個人化するリスクと社会: ベック理論と現代日本

  • 本の目次は出版社のサイトに載っています。

個人化するリスクと社会 - 株式会社 勁草書房

おまけ、最後に

ウルリッヒ・ベックさんの朝日新聞インタビュー記事「原発事故の正体」を見つけましたのでリンクを張っておきます。

「私たちは、着陸するための専用滑走路ができていない飛行機に乗せられ、離陸してしまったようなものです。あるいは、自転車用のブレーキしかついていないジェット機に乗せられたともいえるかもしれない」

長文お付き合いありがとうございます。